樋口一葉
五千円札の肖像になっている樋口一葉は明治5年に東京で生まれた女流作家です。24年間という短い人生の中で、「にごりえ」、「たけくらべ」、「十三夜」など次々と短編小説を発表していった天才作家だと思います。20代前半の明治の女性が、こんなに凄いものを書くのかと思ってしまいました。
それから、句点(。)がほとんどなく読点(、)が続く旧仮名遣い文語体の文章は、最初すごく骨が折れたのですが、読むのが二回目になると慣れた?のか、すごくリズミカルで声に出して読むといいだろうなという気がしました。
「にごりえ」
「おい木村さん信さん寄ってお出よ、お寄りといつたら寄つて宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、」で始まる「にごりえ」は、「たけくらべ」に比べると会話文が多くてすごく読みやすいのですが、内容的には今も自分ではよくわからない場面がある作品です。お力が結城という男から、「お前は出世を望むなと突然に朝之介に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしが落、何の玉の輿までは思いがけませぬといふ、」場面が、その最たるものです。
菊の井で働く酌婦の「お力」には、以前は「源七」という馴染み客がいたが、お力に入れあげた挙句に落ちぶれてしまう。しかし、実はお力は今も源七に未練をもっている。一方、ろくに働かない源七の家族は妻の「お初」と小さな息子「太吉」の三人だが、妻の内職に頼った極貧そのものの暮らしでいる。 そのような中、太吉がお力から高価な菓子をもらったことがきっかけとなった夫婦喧嘩の末に、源七は妻子と別れてしまう。最後には、お力は源七によって切り殺され、源七も切腹して果てる。
この作品では二人の女性が対照的に描かれているのですが、二人とも哀しく寂しい人生を絶望している点が共通していると思います。酌婦の「お力」は新しい馴染み客となった結城に不幸な子供時代を語りながら、自分の人生に絶望し、何の展望も持てないでいます。
また、身寄りもなく幼い太吉を抱えた「お初」も夫「源七」から離縁されると、たちまちわが身を切り売りすることぐらいしか生きていけないことを十分に承知しています。
物語としては、少し唐突に最後の場面となる感もありますが、明治の女性の、自分の力ではどうにもならない虚しさ哀しさを「にごりえ」という言葉で表現しているような気がしました。「ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞こえない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであろう」という文章にも表れているように思います。それにしても、年若い樋口一葉の貧乏生活の描写は体験したものしかわからない生々しいものです。(2010年12月21日)
6月下旬にNHKのBSで、「にごりえ」が放送されるのを偶然発見しました。思わず力が入ってテレビを見ました見ました。
1953年の作品ですが、樋口一葉の「十三夜」(丹阿弥谷津子さん主演)、「大つごもり」(久我美子さん主演)、「にごりえ」(淡島千景さん主演)の三本をオムニバス形式で映画化されたものでした。
特に、「にごりえ」の少女時代のお力がお使いで豆腐?なのか、何なのかよくわからないけど買いに行って、路地で転んでしまうシーンがあるんですよ。
雨の中、泥だらけの道ばたにこぼれ落ちた豆腐(?)をすくって拾い集めて、ざるに戻すシーンは泣かせますね!時代は明治ですが、これが「貧しさ」なんだろうなと思わせる名場面だと思います。(2011年7月15日)
上の写真は、映画「にごりえ」の中の「十三夜」の冒頭のワンシーンなんですが、素晴らしいでしょ。ガス灯の灯りの中を人力車が走っています。
「たけくらべ」
僕は作品としては、「にごりえ」よりも「たけくらべ」のほうが断然好きです。その理由を書きたいのですが、きょうはもう夜遅くなってしまいましたので、申し訳ありませんが次回にさせていただきます。
前回から少し時間が経ちました。忘年会シーズンもようやく落ち着いてきましたので、再び一葉です。
樋口一葉の本のタイトルのつけ方はたいへん素晴らしいものがあると思います。今回の「たけくらべ」というタイトルも、目の前に子ども達が背比べをしている姿や、町中を群をなして走り回っている様子がイメージできる美しいものです。
吉原遊郭の近くの町を舞台に、対立する子ども達の日常生活をベースに、遊女を姉に持つ14歳の美登利と、将来は僧侶となる15歳の信如の淡い恋が描かれています。この「たけくらべ」が好きな理由は、この作品を読むと、作者樋口一葉の子ども達に向けられる愛情というか優しさが随所に感じられ、まるで一枚の美しい絵を見ているような気がしてくるからです。
勝ち気でお転婆で可愛い美登利は、ある雨風の強い日に軒先で下駄の鼻緒を切って困っている信如を見かけるのですが、いつもの強気な態度とは打って変わって言葉も発することができず、信如への恋心に気つかされてしまいます。美登利は恥らいながら布きれを信如に向かって無言で投げるのですが、信如もこれを受け取りません。
時が経過した霜のおりた朝に、水仙の作り花が差し置かれていました。伝え聞くところによると、その日が明けると信如が僧侶になるための学校に行く当日だったらしいのです。美登利は懐かしい思いで、この花を見ている場面で物語は幕を閉じます。
この小説が切ないのは、美登利自身が自分も姉と同じように遊女となる運命であることを理解せずに生きてきたことです。いや、むしろ遊女の姉を誇らしく思うほど、遊女というものがどのようなものなのか知らずに育てられてきたことです。大島田に髪を結った日から、美登利は別人のように無口なり、遊び友達の中にも入らなくなります。
お祭りの日に、極彩色の京人形のような花魁姿になった美登利は、弟分の正太と出会い雑踏を歩くうちに、自分を見る町の人の目が、以前とまったく変わってしまっていることに気がつくのです。そして美登利は、「ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭な事、何故このやうに年をば取る、もう七月十月、一年も以前へ帰りたい・・・帰っておくれ正太さん、後生だから帰っておくれ、お前が居ると私は死んでしまふであらう」と泣きじゃくるのです。
きっと、その時初めて遊女の仕事の中身や遊郭のこと、両親が自分を遊女にするために育ててきたことなどが一度にわかってしまい、いろいろな思いがこみ上げたのだと思います。この「たけくらべ」は、大人になる前の純粋で素朴な子ども達の世界を描くことによって、大人たちの醜い姿を対比的に描いた、まさに「映像のような小説」だと思います。絶対お薦めの素敵な作品です。そして、ぜひ映画化してほしい作品でもあります。(2010年12月21日)
あれから調べてみました。
1955年に美空ひばりさん主演の新東宝作品が上映されていることがわかりました。。。
記録を見ると、美登利を美空ひばりさんが、弟分の正太を市川染五郎さん(現・松本幸四郎さん)、姉の大巻を岸恵子さんが演じています。
いつか、この映画をテレビで放映してくれないかなぁ。美空ひばりさんが主演ならば、きっと歯切れのいい演技で、インパクトの強い作品であるような気がします。(2011年7月15日)